他人の目を気にしてばかりの自分に嫌気が差していたけれど。

自分の行動の理由ってものを深堀りすると、結局は

「どう見られたいか?」

そこに行き着く気がしばしばしていて、

なんだかもやもやしている今日この頃。

がんばるのも、

頑張る人に見られたいから。

地味目な服を着るのも

落ち着いた人に見られたいから。

どう見られたいか、そればっかりが頭の中にあって、

すごく自分で自分を生きにくくしている気がする。

この間簿記の試験を受けてきたんだけれど、

その勉強期間も同じようなことをずっと考えていた。

黙々と、淡々と努力できる人なんだと思われたい。

だからがんばっているのかも、わたしは。って、

そう思い出すと、

動機はとてつもなく不純で、

わたしは他人の目を気にしてばっかりで、

どうしようもない人間だなって

そう思えてきてしまった。

でも勉強を続けているうちに、

簿記の試験を受けに会場まで電車で向かっているうちに、

動機なんてどうでもいいのかもしれないってそう思った。

たしかにわたしは

やるときはやる奴だと思われたい。

頑張れる人だって思われたい。

努力家だって思われたい。

(だれにかは分からないけれど)見返してやりたい。

そんな気持ちで、大学受験ぶりに参考書を買い、

問題集をひらき、問題を解く日々を送った。

気持ちが先にあって、行動は後からしかついてこなかったけれど、

でもわたしは、

たしかに参考書を読みこんだし、

問題を解き続けた。

それは、紛れもない事実で、

わたしはちゃんと「頑張れた」んだと思う。

頑張る前、わたしはわたし自身に対しても、

自分が頑張れる人間なのかよく分かっていなかった。

頑張れる人間だと思ってほしいのは、

自分じゃなくて他人で、

だれかにそうやって骨のある奴だと認めてほしかったはずなんだけれど、

結果、誰よりもじぶん自身が、

わたしは、やれる人間なんだって知ることができた。

だからって別に自分を褒めたりなんてしないけれど。

だってわたしは自分の目なんてどうでもよかったから。

最重要なのは、他人の目だから。

でも、自分で自分のことを信じられるのってすこしだけ清々しかった。

わたしはもっとできるかもしれない。

その感覚がなくては成長なんてないのかも。

だからたぶん、こうありたい自分と、現実の自分に差があって、

見られたい自分になりたいがために

動くのはきっと間違ってない。

他人の目を気にして生きているのってなんかかっこ悪いかもしれないけれど、

でもなりたい自分がそこにいるなら

動機は何だっていいんだと思う。

きっかけが何であったとしても、動いた事実があって、

動いた自分が確かにいて、、、

そうであったとしたら

そんな自分を否定しなくてもいいんじゃないかなぁと、そんなことを思ってみたり。

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