少し前に、
っていう西原理恵子さんの本のレビューを書きました。
その本のさいごらへんに、
ちょっと性格悪いくらいが、幸せになれるよ的なことが書いてあって、
最近、そのことについてよく考えます。
自分で、自分のこと、わたしは性格いいだろうか、悪いだろうか、考えると、
表面上は、いい人を演じてきたし、
そう思われるように行動を選んできたような気がするんです。今まで。
それは、けして誰かに強制されてきたことじゃないんだけれど、
結果として、本に書いてある通り、いい人であることを一生懸命に選び、大切にしてきたって、幸せにはなれなかった。
それを、何度も感じてきて、ああ、もうやめよう。そう思い始めてきました。
こんな言葉にも最近出会いました。
あなたが犠牲になって幸せになる人よりも、
あなたが幸せになって幸せになる人の方が多い。
わたしの選択はたぶんまちがっていたんだ。
そう思い始めて、信じ始めて、
わざわざ自分が苦しくなる選択を、だれかのためにとることなんてもうやめよう。
そう思ったんですよね。ふと。
だけど、いざ、やってみようと思うとうまくいかない。
切り捨てたいもの、
自分が犠牲にならないことで傷つく人の顔が、嫌になるくらい鮮やかに浮かんできたりして。
もうすぐ24歳になるわたしは、積み上げてきたわたしらしさみたいなものを、
上手に切り離すことができなくて、四苦八苦しています。
今は、わたしにとって、向かい風の時期なんです。
ときどき、どこで間違えたんだろう。
なんでこうなったんだろう。
不思議だなっていう純粋な疑問も交えながら、
それでもやっぱり大半が辛いなって気持ちで、
今を見つめてしまうときがあります。
それは毎日やってくる気持ちではないから、
たぶん少し情緒不安定なんだと思う。
真面目にやってきたという自負があるから、
「それなのに」
その気持ちでいっぱいになる。
簡単にいえばうまくいかないとき。
突破口を見つけたくて、いろいろ試してみる。
それが、もういい人なんてやめる. そういう選択につながってもいるんだけど、
ああでもやっぱりうまくいかないや。
そんな感じ。
「幸せになりたいなぁ」
しみじみ、そんな簡単で単純な欲望が、心ににじんでいくのを感じます。
みんなが思っていることだろうけれど、
幸せになるには、何をどんなふうに払っていけばいいんだろうね。
性格悪くなるなんて、考えて行動に起こすことじゃないのかも。
自分が幸せになるために、だれかに不幸せを背負ってもらおうみたいな、
そんな考えじゃだめなんだ。
自分が幸せになるために、自分が、必死になって、どこか、なにか一点を
にらむくらいの強さで見つめて走る。
結果的に、
気を配る範囲が狭くなってるみたいな、そんなイメージなのかな。
少なくとも、
幸せを綱引きみたいに誰かと取り合うのは、なんだか違う気がして。
わたしはやっぱり、自分を自分で幸せに導きたい、と思います。
だから、性格悪いくらいが、幸せになれるよって意味を、
わたしは、
周りに鈍感になれるくらい自分に夢中になって、幸せを掴みにいけよって
そう解釈することにしました。
夢中になりたい、もっともっと。
がんばりたい、もっともっと。