どのくらいの濃度で話すか、ということ。

先日、職場の人とランチに行ったときのこと。

相手は、初めてきちんと話す人。

何話そう。

どんなふうに話そう。

どんなキャラクターでいこう。

まあ、いろいろと打算してしまうわけで。

こう見られたい、とか、そういう欲が出たりするんです。

当然だよね。

そんななか、

相手から「大学時代は何を勉強していたの?」

と聞かれ、

「心理学です」

と答えたありすがわ。

すると、次に相手から、

「どうして心理学を勉強しようと思ったの?」

との質問が。。。

この質問、とても答えるのが難しい。

それはなぜか、というと、

分からないから、ではないんです。

わたしは高校生のときからナチスとか、戦争とか、

そういった過酷な時代を生きる人々の心理状態にすごく興味があって、

彼らが何を思い、

その過酷さや悲惨さ、死に対する恐怖と向き合っていたのか、

「生きる」ということに対して

どんなふうに感じていたのか、

それが気になって仕方なかった。

歴史の授業を受けながら、

それら(戦争)をただ、出来事のひとつとして捉えることができなかったんです。

立ち止まって、

その教科書や資料集にのる、白黒写真上の人々が、

なにに心を支配されているんだろう…。

ひとりひとりに感情移入し、

想像することが(変な言い方かもしれないけれど)好きでした。

そう、

いちから心理学、

「こころ」について学びたいと思ったきっかけを言葉にするとこんなかんじ。

ランチをする、という場面にはちょっと濃すぎるような気がして、

わたしは

うーん、と唸って

悩んだふりをして、

なんとなく…

と濁しました。

なんだかふと思ったんだけれど、

こういう場面って日常的によく出会う気がします。

話の濃度と、

その場の濃度があまり一致しない場面というか。

そういうとき、

その場に合わせて

濃度を調節すべきなのか、

話の濃度に場面がついてこれると期待して

そのままを差し出すのか、どっちがいいんだろう、とよく考えます。

なんだかこれは、相手を信じられるかどうかとか、

そういったことだけではないんじゃないか、とわたしは思ったりもしていて。

だって「空気」って、

わたしと相手の二人だけがつくっているようで、実はちがうから。

周りの温度とか、

明るさとか、いろんな要素でできている。

複雑なんです。

その場面で、どのくらいまで話すか、

それを見極めれる人って、

相当に経験を積んでいるんだと思います。

わたしはまだまだ空気が壊れることが怖くて、

上手に交わる、ずっと、ずっーと手前で身を引いてる気がします。

たぶんそういう調節も、

失敗しながら上手になっていくんだろうな。

いつも引いてばかりでなく、

思い切ってもうすこしだけ押してみる。

そんなふうにして、

ちょっとずつ、自分をだすことを学んでいけたらなーと思います。

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